魔都上海を巡る その2「発展の源『租界』」
アメリカ、イギリス、フランスといった諸外国は、アヘン戦争終了後の1845年から約100年間、上海に「租界」と呼ばれる外国人居留地を設けた。上海に租界がなかったら、おそらく今のような発展はなかっただろう。上海の発展と租界は切っても切り離せない。上海が「魔都」と呼ばれる由縁となった租界を巡ろう。
外国人居留地だった租界は、当時の清朝も統治が及ばず治外法権だった。華やかな面があったと同時に魑魅魍魎が跋扈し、アヘン窟やカジノ、売春宿も数多く存在していた。上海が「魔都」と呼ばれるようになった由縁はそんなところにある。一方でさまざまな外国文化や産業が入り、近代的な建築物が建てられたことが、今の上海の発展の基礎となった。
中国の検索サイト「百度」にある地図を使って租界の位置を見てみよう。前回見ていただいた上海中心部の地図で言えば山手線の上野のあたりが中心になる。青く塗ったエリアが「国際共同租界」で、米英を中心に欧州各国と日本が入っていた。そしてピンクに塗ったエリアが「フランス租界」。どちらの租界も最初は川沿いのごく狭いエリアだったのだが、その後どんどん拡張を続けていった。
当時の中国はあちこちで動乱があり、外国が管理していた租界に数万から数十万人単位で人が押し寄せるように避難してきた。租界は爆発的な勢いで人口が増え、両租界はそれを口実に半ば強引に拡張していったわけだ。
1930年には共同租界の人口密度が1平方キロメートルあたり4万4000人となり、当時世界最高だったロンドンを超えていたという。ちなみに、現在の東京23区の人口密度は1平方キロメートルあたりおよそ1万4400人。いかに租界内に人が密集していたかがわかる。
租界の中で、「日本租界」という正式な名称の場所はなく、日本人たちは共同租界の中で暮らしていた。しかし、日本人が多く集まっていたエリアがあり、それが、地図の中央上にある「虹口区」の「虹」の字と、その下の「共同租界」の「共同」の字の間を囲んだあたり一帯。ここが「日本租界」と呼ばれることもあったようだ。一番多い時で約7万人もの日本人が上海で暮らしており、上海の総外国人数の半分以上を占めていた。
現在、上海在住の日本人の数は5〜7万人程度ではないかと言われている。当時から、現在と変わらないほど多くの日本人が上海に暮らしていたことは、大きな驚きである。
租界に沿うように流れる「黄浦江」は世界で3番目の大河「長江」へと流れ込む。次回は上海の北を流れる長江を巡る。