魔都上海を巡る その9「上海人の心の故郷『弄堂』」
今回はちょっと真面目に、上海を特徴づける建築物の一つ、「石庫門」を取り上げる。文字面からすると「石でできた倉庫の門」のように見えるが、そうではない。「石庫門」とは、かつて上海に租界があった時代に、そこに住む庶民のために建てられた集合住宅の建築様式のことである。表題にある「弄堂」は、石庫門が集まった、一種の長屋街のようなところである。
上海の租界については「魔都上海その2 発展の源『租界』」をご覧いただきたい
租界が始まって間もない19世紀後半、上海周辺は太平天国の乱などで治安が乱れており、多くの人たちが外国人が管理する租界に逃れてきた。ところが、彼らが住む場所が圧倒的に不足していたため、それに乗じた上海の外国人商人たちが、金儲けのために租界内に多くの集合住宅を建築していった。
こういった集合住宅の場所は「弄堂(ロンタン)」と呼ばれ、20世紀前半には、当時の住宅の4分の3を占めていたという。今も数多くの弄堂が残っており、昔ながらの庶民生活を垣間見ることができる。
なぜこの時の集合住宅の建築様式が「石庫門」と呼ばれるようになったのかについては、次のようないきさつがある。
これらの住宅はドア(中国語で門)のまわりは石、ドアそのものは厚い木板でできており、中国語で周囲をくくる輪のことを「箍(グー)」と呼ぶことから「石箍門(シーグーメン)」と呼ばれていた。ところが、上海近くの寧波では箍の字を方言でクーと読んだため、上海ではクーと読む漢字に「庫」をあてて「石庫門(シークーメン)」になったのだという。
老人を中心にまだ多くの人たちが弄堂の石庫門に暮らしているが、ほとんどの人は生活に便利なマンションに移り住んでいる。なにせ一世紀近く前に建てられたものがほとんどだ。生活環境としてはあまりよくない。特に水まわりが貧弱で、古い建物だと家の中にシャワーどころかトイレも流しもない。
そのため多くの弄堂が開発という名のもとに破壊され、そこに高層マンションなどが建てられている。だが、上海人にとっては心の故郷であり、上海のシンボルともいえるこの石庫門は、近年になって存在意義が見直されて、今ではできるだけ保存、または活用していく方向に動いている。
さて次回は、上の写真で紹介した「田子坊」について話を進めていくことにする。